単立ペンテコステ教会フェローシップ(TPKF)

1.沿革

 近代における聖霊傾注は1901年トペカ、1904年ウエールズとインド、1906年アズサ通りと続く。1906年ノルウエーのT・Bバラット(メソジスト)はアメリカに渡り、アズサ通りで聖霊のバプテスマを受けた人々と交わりを持ち同じ祝福にあずかる。彼の聖霊経験はホットニュースとして母国に伝わり、ノルウエー中が彼の帰りを待つ。やがて母国に帰った彼を通してその火はノルウエーから北欧中に広がり、それが今日のTPKFのバックボーンとなっていく。

 ノルウエーではリバイバルの3年目1908年に2人の婦人がインドへ行くためにA・Bシンプソンの神学校で宣教師の訓練を受けている。1930年代までには100人の宣教師が起こされている。国内でも2年間で32の教会が設立されている。

 1886年―スウエーデンのベルムランドで、1894年ダーラムで異言を語った記録が残っている。1902年に聖霊のバプテスマをすでに経験していたスウエーデンのレビ・ペトロス(バプテスト)はそれが何であるかを知らなかったのであるが、1906年に帰国したT・Bバラットをオスロに訪ね、そこで按手を受け、聖霊の川が激しく流れ出し、かつての経験が聖霊のバプテスマであることを知る。

 18世紀、フィンランドの小さな集まりにおいて聖霊の満たしに伴う異言や預言が多少現れていたのであるが本格的なペンテコステ・リバイバルは1908年、スウエーデン語のみを話す40万人のフィンランド人の間でまず燃え上がった。1911年、バラット師が初めてフィンランドを訪れてからフィンランド語を話す人々の中に広がり、ノルウエーからゲラルド・スミット師が2年間フィンランドに滞在したとき聖霊の注ぎはさらに発展し、フィンランドの本当のペンテコステ・リバイバル運動が生まれていった。1912年、ペンテコステ・リバイバル運動はバプテスト教会にも及び、このことがより健全な聖霊運動となり教理体系に大きな影響を与えたと言われている。

 聖書に帰ろうとする姿勢は非常に強く、99%が国教会による幼児洗礼を受けているフィンランドで浸礼による水のバプテスマが強調され多くの人が浸礼を受けるようになっていった。1920年代になり地方教会が設立され、1929年から世界宣教が活発となり、1930年には中国、ビルマ、アフリカ、南米まで広がっている。

 1977年、ガンを宣告され小さな村に引きこもったニーロ・ウリバイニオ師は奇跡的なガンの癒しを経験し、彼を通してフィンランド中に静かな第二次のリバイバルの流れが始まり、クリスチャンたちは救霊の使命感に燃えて教会堂から外に出ていき、熱心な伝道活動が展開されていった。

 アメリカ系の教会は1900年にノルウエーから渡米した若者が遭難に会い劇的に助かり、献身を決意してシアトルで教会を始めたことが始まりである。アズサ通りから始まった聖霊の流れはシアトルにも及び、そのリバイバルの中で教会形成がなされている。

1)日本宣教

 TPKFはペンテコステ・ムーブメントの流れの中から生まれてきたことにおいて神の摂理があることを感謝するのである。TPKFに与えられているDNAは神の主権、聖書に忠実、救霊と世界宣教の情熱、聖霊の流れである。1950年、TPKFのほとんどの宣教師はもともと中国、モンゴル、チベットに使わされていたが、共産化のため宣教地を脱出せざるを得なくなり、結果として日本の宣教に導かれている。このことは日本に対する神の恩寵としか言いようがない。

 1950年6月、中国雲南省から台湾経由でフィンランドのA・マキネン宣教師、T・タパニ・カルナ宣教師夫妻が来られ、その後続々と宣教師が来日。特に1954年に来日したユッカ・ロッカ宣教師夫妻は、T・L・オズボーン師を日本に招聘、ちから誌の発行、ラジオ伝道を始める、というエネルギッシュな宣教を展開した。その後、フィンランドからは引きも切らず宣教師が来日し、現在もTPKFの中ではもっとも宣教師の数が多い。ノルウエーの宣教師達は伝道が困難と言われた北陸方面に伝道を展開している。アメリカから来たH・ヘステキンド宣教師はGHQから教団に属さない宣教師の代表の立場を与えられ、日本に個人的に入ってくる宣教師の窓口として用いられ、横浜を中心として伝道を展開。スウエーデンの宣教師は1950年5月J・ジョンソン宣教師夫妻の来日を皮切りに多くの宣教師がそれぞれ来日している。

 TPKFの50周年記念誌を見ると、宣教師達の救霊の情熱に圧倒される。国を離れ、異国の地中国での宣教を断念せざるを得なかっただけでも大変な事であるが、不思議な神の導きの中で、次から次へと日本宣教に身を献げて来日し教会形成をしてこられた。アメリカにおけるペンテコステ・リバイバルの当初によく見られたように教団を形成せず、単立を尊重する流れはTPKFのDNAでもある。しかし、孤立しがちな単立教会が交わりを持ち続けることが出来たのは初期の宣教師達や、日本人リーダーが教会間の交わりを大事にしてくれたからである。一般の教団組織の形を持たず、規約や役員もなく、本部もない、名称どおりのフェローシップであった。

2)現在のTPKF

単立ペンテコステ教会フェローシップ(略称TPKF)はスウエーデン系、ノルウエー・デンマーク系、フィンランド系、アメリカ・カナダ系のペンテコステ信仰を持つ単立諸教会の交わりを中心とした、67教会からなる団体である(詳しくは教会紹介ページをご覧ください)。他、海外派遣宣教、福音書店、研修施設、幼稚園、放送伝道、海外社会事業(HOP)、伝道雑誌「ちから」誌(毎月発行)、機関誌「ペンテコステ」(年4回発行)、共通神学校として関西聖書学院(KBI)がある。

2.相互協力

1)TPKF代表者会議

1982年2月、第1回TPKF代表者会議が、愛知県労働者研修センターで行なわれた。その後、毎年2月と9月に定期的に代表者会議が行なわれている。代表者会議では、各地方教会の報告や、単ペン大会、出版、ちから誌の発行、宣教師の派遣、教職者の諸問題、聖書学校などについて話し合われている。
関西、北陸、中部、関東からの代表の中から3年任期の議長、副議長、書記、会計が選出され、ゆるやかな組織作りを目指している。

2)単立ペンテコステ大会

単ペン大会の最初は北欧諸国他の宣教師の交わりであつたが、1962年に初めて日本人を加えた聖会が京都で開かれた。そのころは、「独立ペンテコステ大会」と呼ばれ、私たちの教会が教団ではなく、あくまでも独立した地方教会であることを強く打ち出していた。単ペン大会は、特にTPKFの教職者にとっては大切な聖会であり、牧会、伝道のための良い励まし、交わり、教育を受ける機会となっている。現在は次期リーダーの養成に主眼点が置かれ、教職者中心のリーダーシップの学びになっている。

3)ちから誌・ペンテコステ誌

「ちから」誌は、北陸の宣教師や牧師たちによって始められた教会の機関紙・伝道誌「待望」が前身である。のちに「ちから」誌と名称が変わり、TPKF諸教会信徒のための良い雑誌であり、あかしを通して励まされ、多くの聖書知識が与えられ、信仰成長のために用いられた。今日では、超教派の福音雑誌として位置づけて全国のキリスト教書店に置かれ、TPKF以外の教会の伝道に用いられるようになっている。これに伴い、信徒の成長とTPKFの交わりを強化するために機関紙が1992年12月号より、「単ペンニュース」(現ペンテコステ誌)が発行されている。

参考文献

「愛は海を越えて」 FFFM日本宣教50年誌(フィンランド)2001年発行
「FCMF50周年記念誌」(ノルウエー)2001年発行
「フィラデルフィヤ創立30周年記念誌」(アメリカ)1981年発行
「風と炎」純福音教会宣教40周年記念誌1990年発行
「世界のペンテコステ運動の歴史」ちから誌1981年3月号~1982年11月号
「ペンテコステ・リバイバル」源流と発展―米国アッセンブリー教団のあゆみ 2001年発行